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演題 「楽食のススメ」

弁士 宇佐美響(文1)

【導入】
同じものでも一人で食べるより、誰かと一緒に食べたほうが楽しいし、おいしいですよね。一人で何も気にせず食べるのもいいですが、やはり、誰かと会話をしながら食べる楽しさは何物にも代えがたいものがあります。しかし、この楽しさを最大限味わえないこともあります。
高校時代、友人とうどんを食べに行った時のことです。わたしはいつものように、うどんを一本ずつ、食べていきました。すると友人が不思議そうな目で、こう尋ねてきたのです。「なんでそんな妙な食べ方なの?」
 私は麺をすするのが苦手で、途中で噛みきるのも嫌いでした。そんな私がうどんのような太い麺を食べるには、一本ずつゆっくりとすする以外なかったのです。その旨を説明すると、友人は「ふーん」と一言。納得したような、していないような表情でした。
 私は何とも言えない、モヤモヤとした気分になりました。友人に指摘されたことによって、自分の食べ方を意識するようになってしまったからです。うどんの味が、急に薄くなったかのようでした。(間)「妙な食べ方」友人から言われたその一言が、ずっと私の心に残っていたのです。そう、ちょうど、喉に刺さった魚の小骨のように。
 皆さんにも、こんな経験ありませんか?ちょっとしたことから、食事を最大限楽しめなくなってしまう。とても残念で、悲しいことだと思います。
 本弁論では、食事の楽しみを阻害する要因を示し、他者との食事を最大限楽しむための方法を提案いたします。
  【現状分析】【問題点】
 さて、食事の楽しみを阻害するものは一体何でしょうか?
それは、食事の場に生じる不和です。皆さんは次のようなことを体験した、あるいは見聞きしたこと、ありませんか?例えば、焼き鳥を串から外し、取り分けてあげようとしたらなぜか怒られた。大皿のから揚げに断りなくレモンを絞ったら、文句を言われたので「家ではずっとこうしてきた」と言い返した。
このように、文句を言った人と文句を言われた人どちらも自分が正しいと思っているのです。
自分の食べ方が正しいと思っていると、つい相手のことを考えずにいつもやっている通りに振舞ってしまったり、相手の食べ方が自分と違っていると、指摘してしまったりします。指摘された側は当然、モヤモヤ感や不満感を覚えますし、指摘した側だって、違和感や不快感があったからそうしたまでのことです。両者とも、食事の楽しみからは遠ざかってしまいます。冒頭で私の体験した、うどんの一件がまさにこのケースです。友人にとって、うどんは「普通」一本ずつ食べるものではなかった。だから私の食べ方に違和感を覚え、つい、妙な食べ方、と口にしてしまったのです。
【原因分析】
 では、なぜそういうことが起きているのでしょうか?
 その原因は勘違いです。自分の食べ方を「正しい食べ方」と思い込んでいるのです。そして、多くの人が「正しい食べ方」をするための「マナー」があり、誰もがこの「マナー」を守るべきだと信じているのです。確かに、「マナー」は正しいと言えまし、守るべきものだと思います。なぜなら、「マナー」とは、社会の中で人間が気持ちよく生活していくための知恵だからです。
しかし、現在「マナー」と「慣習」を混合している人がいます。「慣習」とは、地域や世代によってことなるものです。この「慣習」が「マナー」にまで昇華されてしまっているのです。つまり人によって、どこまでが「常識」で、許せる範囲なのか、が違ってくるということです。例えば、関西では天ぷらにソースをつけて食べるところもあるそうですが、許せないという人もいるでしょう。秋田県では、納豆に砂糖をいれる慣習がありますが、全く理解できない人だっているはずです。秋田出身の私だってやりません。このように国内ですら、共有されていないことはマナーではなく慣習なのです。秋田人にとってはこれが「マナー」かもしれませんが、私たちにとってこれは「慣習」にすぎないのです。
海外に出てみると私たちと全く違うマナーの存在が見えてきます。日本では常識とされるマナーが一切通じないことがあります。例えば茶碗を左手に、お箸を持って、が日本の常識ですが、韓国では茶碗どころか食器を持ち上げること自体NGですし、インドではそもそも手で食べます。マナーがいかに恣意的なものであるか、お分かりいただけたかと思います。
そう、多くの人が「慣習」と「マナー」をごっちゃにしています。その上、社会一般に普遍的なマナーなんて、ほんの少ししかなく、ゆえに唯一正しい食べ方など存在し得ないのです。それなのに、自分の食べ方を正しいと思ってしまうから、お互いの価値観が食い違って、不和が生まれるのです。
【理念の強調】
大学に入学して、実家を離れてから、一人で食事をとる機会は増えました。それだけに、誰かと一緒に食べる楽しさを改めて感じましたし、そのありがたみも身に沁みました。だからこそ訴えたい。日常のささやかな喜びを、小さな幸せを、最大限享受するために、無用な不和の芽は摘み取らなくてはならないと。
【解決策】
 そのために必要なことは、2つ。まずは一つ目、「正しい食べ方」など存在しないと、常に心に留めておくことです。先程述べたように、地域や世代によって慣習は異なります。そのため、人によって、どこまでが「常識」で、許せる限度なのか、ということも違ってきます。広く社会に一般的だと思われがちな、マナーでさえ、ある種恣意的なものなのです。ですから、食べ方に「唯一の正解」などありはしない、「正しい食べ方」など存在しない、ということを理解しましょう。
 では次に二つ目。これは、実際に、この認識に基づいてコミュニケーションを図ることです。「食べ方は色々ある」と認識した上で、どうしても相手の食べ方が気になる場合。ここは、指摘するのではなく、質問しましょう。「なぜそういう食べ方をしているのか?」理由が分かれば理解に繋がりますし、純粋な疑問であれば、相手の気分を害することもないです。そして、重要なのは、聞かれた側がしっかりと答えてあげること。特に理由がなく、なんとなくならなんとなく、でもいいので、正直に答えましょう。相手の聞き方が多少気に障っても、むっとせず、「ああ、この人は歩み寄ろうとしてくれているんだ」と思って誠実に応じる姿勢が大切です。そして、相手にも聞き返しましょう。「じゃあ、君はどうしてそういう風に食べているの?」こうすれば、お互いに、「こういう考え方から、こういう食べ方をする人もいる」ことを知ることができます。仮に理解できなくとも、事実として受け止めることは可能なはずです。互いに理解しようとする姿勢を見せれば、対立に繋がることはありません。これによって、今後同じ場面に立ちあっても戸惑うことがなく、自然に対応できるようになります。
【展望】
 思い返せばうどんの一件では、私と友人、双方に問題があったと言えます。友人は、「妙」という言葉を使うべきではありませんでした。私の方も、冷静さを欠き、誠実な答え方ではありませんでした。少なくとも、友人は「質問」してくれたのですから、私の方からも、歩み寄る姿勢を見せるべきでした。当時食べたうどんは、途中で味が分からなくなったけれど、今思い返すなら、私にとっては「苦い」思い出です。
 食べ方に寛容ではない社会。これを作り上げてしまったのは、食べ方を理解しようとしなかった我々です。だからこそ、我々が変わることで、社会も変えられる。確かに小さな問題かもしれないけれど、これは日常に潜む、何より身近な問題です。そして、皆さん一人一人の意識次第で解決できる問題でもあります。少し気を付けるだけで、避けられる痛みです。そう、ちょうど魚の小骨のように。
ご清聴ありがとうございました。



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