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演題 「理を現す」

弁士 小泉学(農2)

【導入:科学の変質】
「重要なことは、疑問を止めないことである。探究心は、それ自身に,存在の意味を持っている。」
 かの偉大な科学者、アインシュタインの言葉である。 彼が発見した多くの理論は、現代の宇宙科学の「礎」を築いた。
 1世紀近く前の科学者が残したモノは、今なお、色あせることなく、光り輝いている。
 科学。それは、人類が生み出した「英知」である。
 ニュートン、ガリレオ、そして、ダーウィン。彼らが科学に身をささげた理由は、ひとえに、純粋な未知への探究心からだったのだ。

 ときは移ろい、現代。科学は、純粋な探求心のみでは、成り立たなくなってしまった。科学の捉え方が変化したからだ。
 科学は探究心、それ自身に、存在の意味を、持っているのではなかったのだろうか。 現代における科学は、いったいどうあるべきなのだろうか。
 本弁論は、現代の科学を再検討し、科学の価値を訴える弁論である。


【知的探求心という・源的欲望】
 ヒトは未知のものを知りたいと思う、知的探求心を持つ動物である。
 アリストテレスが「人間は、生まれながらにして、知ることを欲する」と、表現したように、知りたいと思うことは、ヒトの根源的な欲求なのだ。
 この知的探求心を持っていることが、ヒトをヒトたらしめる所以である。


【科学の成り立ち】
 この探求心は、「科学」を、生み出した。科学とは、仮説を作り、実験や検証を経て、普遍的な知識を得るための、ツールである。
 人間はこれまでに、さまざまな知識を獲得してきた。そして、獲得された知識は、新たな知の探究のきっかけとなっているのだ。
 例えば、アインシュタインが唱えた相対性理論は、既存の常識を打ち破り、新たな知識を,我々に提供した。今や、宇宙の枠組みを説明するうえで、必要不可欠な理論である。
 科学とは、新たな知を生み出すための、道具なのである。


【科学技術の成り立ち】
 科学の知識は、技術と結びつき、科学技術をもたらした。我々は、様々な知見を応用し、技術開発を行う。
 その中でも、特に,科学の知識を応用した技術が、科学技術である。
 科学技術は、科学の知識を利用し、具体的な産物を生み出す。そして、この科学技術こそが、我々の生活を豊かにした。

 これは、特に医療や工学の分野で顕著である。現在の我々の生活には、科学技術が欠かせない。
 風邪の時に飲む薬から、誰もが手にするスマートフォンまでもが、科学技術の結晶なのだ。
 科学技術とは、科学の知識を利用し、ヒトに利益をもたらすための装置なのである。


【知的探求の陰り】
 しかし現在、この科学技術によって、科学の知的探求の姿勢に、陰りが、見え始めている。科学の本来の目的である、知的探求の、幅が、狭まってしまっているのだ。
 すでに、この兆候は見られはじめている。

 iPS細胞の研究は、生物史の歴史が塗り替えられる偉業として、論文発表当時から世界で大きな注目を浴びた。にもかかわらず、日本政府が支援を行うようになるのは、再生医療の見込みがついてからだった。
 科学技術化の見込みが立たなければ、科学による知識の追究に対して、支援は行われなかったのだ。
 科学技術は、科学の可能性を限定し、科学の知的探求の姿勢を、損なってしまっているのだ。


【知的探求の幅の狭まり】
 この傾向が最も顕著に表れている場所がある。学問研究の場である大学だ。去年の秋に発表された、文部科学省の通知が良い例である。
 文部科学省が国立大学に、人文社会系学部の組織見直しを通知したとき、「社会的要請の高い分野への転換に、積極的に取り組むよう努める」という文言を発したのだ。
 大学に入って勉学に励む目的は、何だったのだろうか。社会に役立つ勉強だけを、することなのだろうか。
 いや、違う。学びの場において、優先されるものは、社会に、いかに、還元されるかではない。
 我々は、自分の知的探求心を満たすために、自ら学ぶのだ。しかし、その姿勢が今や、社会的要請の名のもとに、捨て去られようとしている。
 実利をあまりにも追い求める姿勢は、科学を変質させる。科学の可能性を限定してしまう。知的探求の幅を狭めるのだ。


【その深刻性】
 科学の可能性の限定は、科学そのものの発展を妨げる。
 知識とは思いもよらない点で、結びつくものである。例えば、現在の生命科学は、生物の知識はもちろん、化学など様々な知識を用いる。
 こうして、分野の垣根こえることで、既存の分野は発展し、新たな分野は生み出されるのだ。
 科学の幅が狭まることは、知識の結びつきの可能性を、狭めることに他ならない。結果的に、新たな知識を生み出す可能性が狭まってしまう。
 だからこそ、知的探求心は、自由であるべきだ。自由な探求心なくして、科学の発展はありえないのである。


【原因:評価基準の間違い】
 資金配分に、優先順位をつけるなと言いたいわけではない。ヒトに有益な科学の発展を、妨げたいわけでもない。この2つ提案を否定することは、現実的でもなければ、ヒトの利益にもなりはしない。
 私が主張したいことは、現在の科学に対する評価尺度が、間違っているということである。

 現在、科学は、人の役に立つか否か、という技術の尺度で図られている。
 いかに、知的探求を促進するか、という科学の尺度ではなく、いかに、直接的に人の役に立つか、という技術の尺度で、科学研究の評価が決定づけられてしまっている。
 この間違いを正すべきである、と主張したいのである。


【評価基準の独立】
 私が弁論の冒頭で定義した、科学と科学技術の違いを、今一度、思い出してほしい。

 科学とは何か。
 科学とは、新たな知を生み出すための道具である。
 科学技術とは何か。
 科学技術とは、科学の知識を利用し、ヒトに利益をもたらすための装置である。

 我々は、この差異を、今一度、しかと、認識しなければならない。科学の評価基準と、科学技術の評価基準を、独立に持つ必要があるのだ。
 科学の知識の価値は、科学技術の応用化を現す尺度ではけっしてない。科学は、知識そのものに価値があり、次の知識の発見のために、いかに有用であるかで図られるべきなのである。


【草の根科学】
 そしてこの価値観を、我々一人一人が常に持っていることが、何よりも重要である。
 我々が、科学者の支援者だからである。現在の科学の資金支援は、大きく税金に頼っている。
 科学の支援者が、貴族や金持ちであった時代は過去に過ぎ去り、今や我々一人ひとりが支援者になったのだ。
 一人ひとりが、科学、科学技術への認識を改めることで、それぞれの分野は、知的探求と実利追求の両者を、最大限、追求できるようになるのだ。
 技術は、解明された原理を利用し、人々に還元する。そして、科学は、知的探求を続け、未知の原理を明らかにする。
両者の価値観が、互いに尊重されるためには、なによりもまず、我々が、草の根となり、科学とは何かということを、知っていかなければならないのである。
アインシュタインも言うように、科学の知的探求には、それ自身に価値があるのだから。



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