わたしは先日,空間がゆがむのを感じました。御茶ノ水駅から大学に向かい歩いているときの話です。
空間のゆがみを感じ,そして見たのです。ゆがみの中心から赫奕と降り注ぐ光を。
あの光の先に進んでいけば,おそらく異空間にいざなわれたはずです。
この話は,たとえ話ではありません。めまいや精神性のたぐいの話でもありません。
根拠もあります。著名な宗教家たちが言い方は違いますが「空間のゆがみを見る事はありうる」と述べているのです。
だれも信じていません。厳しい10分間の始まりです。
心配しないで下さい。この神秘的な話を10分間続けるつもりはありません。近況報告はここまでにして,本題に入ります。
人が最も信じやすい話題とはなんでしょうか?
科学です。科学には人を信じさせる力があります。神秘的で破壊的な,力です。
人はその力に,「未来」や「豊かさ」を思い描きます。
体の底から湧き上がってくる溶岩のような言葉よりも,氷のような10個の文字と記号に「未来」を描くのです。
私には,非科学の怒りが聞こえます「科学が憎い!科学が憎い!」。
情報と接する際には,受け手が科学的と感じるかどうかが重要な論点になるのです。
冒頭の私の告白は,私自身とこの弁論への不信感を買うだけで終わっています。
しかし,よく考えてみると,私達は,重力によって空間がゆがむ事を知っています。
そう,アインシュタインの相対性理論です。
では,なぜ重力によって空間がゆがむことを知っているのでしょうか?実際に歪んだ空間を目にしたのでしょうか?
私達は,経験していないにも関わらず「重力によって空間がゆがむ」事を知っています,信じています。
しかし,世界中で,このアインシュタインの相対性理論を完全に理解し,検証する機会を持つ人が実際に何人いるのでしょうか?
経験もしていない,理解もしていないにもかかわらず,私達は,ごく少数の「おたく」達が反証できないと言っているに過ぎない,この理論を信じているのです。
これと,「神の存在」を信じる事とは何が違うのでしょうか。
少なくとも,冒頭の話のように,宗教家や哲学者が「空間がゆがむ」のを見た,と語ったとしても信じる人は少ないでしょう。
しかし,科学者が「空間のゆがみ」を観測したと言えば,たとえ理解を超えていたとしても信じるのです。
同じ結論を述べるとしても,宗教家や哲学者の言葉よりも,科学者の言葉は「正しく」映るのです。
ここで一つの問題です。科学は本当に「正しい」のでしょうか?信じるべき対象でしょうか?
哲学・宗教と比較してこれを考えます。
言うまでもなく,科学・哲学・宗教はどれも真理に近づくことを目指しています。この中で,科学は哲学の1形態と言えます。
理学博士も工学博士も社会学博士も英語ではPh.D,「フィロソフィードクター」すなわち哲学博士なのです。
哲学は,真理に近づく為のさまざまな手法を提示していますが,その中の1つ「科学的手法」を用いた真理の探究を「科学」と呼んでいるのです。
科学的手法の最も中心的概念として「再現性」と「反証可能性」が挙げられます。
これらは,つまり形而上と形而下,理論と実践の両方で「正しい」ことを実証しなければ「真理」に近づくことはできない,とする哲学といえます。
頭の中だけで因果関係を推論することを目指した合理論,実践の積み重ねから真理を導き出そうとした経験論,
これら両方を包摂するのが「科学的手法」という哲学です。
デュルケームの「アノミー」もサルトルの「自由の刑」も,述べている結論は同じです。
サルトルが哲学者で,デュルケームが社会科学者と認識されているのは,デュルケームが科学的手法を用いてその結論を導き出したからにほかなりません。
科学を科学たらしめているのは,科学的手法以外にないのです。
一方で,その科学的手法の定義は曖昧でもあります。
だからこそ,「科学的」とはなにかを考える「科学哲学」という学問分野が存在するのです。
ある科学哲学者はこう述べています「科学の手法とは何か答えろ,と迫られたら『何でもありだ』と言わざるを得ない」。
つまり,私達が信じている「科学」はたぶんに「哲学」の要素を持ちながら,しかも定義が曖昧なのです。
科学の条件が,科学的手法を用いることであるならば,ある結論が科学的に「正しい」かどうかを判断する際の基準は,
「正しい」科学的手法を用いたかどうかにあるはずです。しかし,「正しい」科学的手法の定義は曖昧なのです。
ここで2つ目の問題です。
科学の判断基準と言うべき「正しい手法」の定義が曖昧であるのに,「科学的に正しい」とされている理論が現実に存在するのはなぜでしょうか?
だれが「正しい」と決めているのでしょうか?
答えは科学者たちです。
科学者が新しい主張を行う際に,根拠に基づく立証責任を負うのは当然それを持ちこんだ科学者です。
これに対してその他の科学者は組織的にかつ懐疑的に検討を加えます。
このような保守的な科学者を説得し「正しい」とされたものが理論として成立しているのです。
つまり,科学的な「正しさ」は科学者の総意によって担保されているのです。
1962年から1965年の間,ローマ教皇ヨハネ23世のもとで,バチカン公会議が行われました。
開会式に2500人以上の聖職者が集まったこの大会議では,「カトリックの行事において,ラテン語ではなく現地語を用いる事は正しい事である」と認められました。
科学の正しさとは,絶対的な正しさでも「真理」でもなく,むしろ私達がイメージするところの哲学的・宗教的な「正しさ」に近いのです。
まとめます。科学は科学的手法を用いた哲学ですが,その科学的手法の定義がそもそも曖昧であり,
それゆえ,科学的な「正しさ」と哲学的・宗教的な「正しさ」との間には本質的な違いが存在しないのです。
私は大学で宗教や哲学を専攻していたのではありません。社会科学の方法論を必死で勉強しました。
科学全てに絶対的な客観性・絶対的な正しさを思い描き,科学の力で社会問題を解決したい,と思ったからです。
しかし,科学は,特に社会科学は,想像以上に主観の入り込む余地があり,曖昧なものだと感じました。
私は今でも科学が嫌いなわけではありません。科学に未来を描いています。
科学が,現代社会を物質的に豊かにした事は疑いようがないからです。しかし,今以上に科学にリテラシーが求められる時代は無いでしょう。
理由はデータがあまりにも氾濫しているからです。
物理的な実験を行うことが難しい社会科学では,分析における最大の壁はデータの有無です。
ここ数年にデータの量は爆発的に増加しています。
スマートフォンのGPSによって人の移動はデータ化され,ネット通販を利用すれば属性ごとの購入傾向がデータ化されます。
現在は,文字通り巨大な「ビッグデータ」が存在する時代です。分析の最大の壁が低くなり,科学があふれる時代が来つつあります。
科学の敷居が低くなる分,科学的手法に目を向けず,あるいは手法に誤りを含む科学も膨大にあふれます。
私達は,氾濫する膨大なデータと分析結果の中から,宗教的にではなく科学的に信用できるもの選び出さなければなりません。
そのためには,私たちが,データや分析で用いられた科学的手法を吟味しなければなりません。
繰り返しますが,1哲学に過ぎない科学を,宗教や他の哲学と分ける垣根は「科学的手法」です。
この垣根は曖昧で,ところどころ切れ目があります。しかしだからこそ,科学を用いるなら科学的手法に目を向けなければならないのです。
ニュートンは科学者か,それとも預言者か。それを決めるのは,私達自身です。
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