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演題 「膨張する民主主義」

弁士 濱英剛(政経4)

【理念および主題】
「雄弁部に入りたい」と言ったとき、友達・家族・親戚の全員に爆笑されました。
本気で止めた人もいました。これは仕方のないことでありまして、高校では朝から晩まで野球漬け。
授業は昼まで爆睡。読書といえば毎週月曜、授業中に読む少年ジャンプのみ。
絵に描いたような 野球小僧でした。
にもかかわらず、なぜわたしは雄弁部という正反対の世界に足を踏み入れたのか。
それは紛れもなく、あの震災があったからです。私は1年間仙台に住む決意をしました。
被災地を見て回り、人と触れ合い、震災の爪痕を肌で感じました。
ただ入部のきっかけはそのこと自体ではなく、震災を経て大人への絶対的な信頼が崩れさったことでした。
いつもわたしを導いてくれた大人が慌てふためき、怪しい情報に踊らされ、風評被害を垂れ流す。
知識人やマスコミはそれに加担し謝罪もない。この時の衝撃と怒りは一生忘れません!
わたしは仙台で決意しました。「正しい情報を集めて、理性的に答えを出せる人間になりたい」と!
そしてわたしはバットを置いて、この演壇に上っています。
しかしいざ入部してからは、その難しさを骨身にしみて実感しました。
アベノミクス・原発再稼働・集団的自衛権。
あまりに複雑な問題が絶え間なく登場し、答えを出せと催促します。「これが民主主義だ」と人は言います。
しかしわたしたちは本当に「正しい情報を集めて、理性的に答えを出せる」のか?
本弁論は現代社会の特徴を踏まえた上で、
現代における民主主義の限界とその可能性について論じるものであります。


【民主主義の変容とその特徴】
さて、本題に入る前に、少し歴史を遡りましょう。現代の民主主義は、歴史的に少し異形だからです。
そもそも民主主義、ここでは「共同体の指針を決める営み」と定義しますが、
歴史的にあるひとつの大前提がございました。
それは「自らが直接見聞きできる範囲の共同体である」ということです。
生活や仕事での直接的な体験を頼りに、一目で見渡せるコミュニティの問題に対して答えを出す。
50キロ先のお隣さんには決して口を挟まないのであります。
こうしたface-to-faceの社会こそ民主主義の大前提として機能しておりました。
しかしながらこの前提は、産業革命、そして昨今のIT革命とよばれる出来事によって根底から崩れました。
交通・運輸・通信技術が飛躍的に発達し、ひと・モノ・情報が凄まじいスピードで、膨大な範囲で交わっていきます。
わたしたちは日本中の出来事を瞬時に知ることができますし、2時間あれば北海道にも沖縄にも飛べる。
このような技術によって、従来のface-to-faceのコミュニティは衰退し、代わりに一目で見渡せる範囲を遥かに超えた社会が形成されました。
全世界のひと・モノ・情報の影響を強く受ける社会、いわば巨大社会の中で生きることを余儀なくされているのであります。
当然ながらこの巨大社会では、わたしたちと関係する出来事もより広く多く、なにより複雑になります。
ホルムズ海峡でのゴタゴタや、フランスでのテロ事件もわたしたちと無縁ではありません。
そして巨大社会では、それらの答えを際限なく、そして性急に求め続けるのであります。
これぞまさに「民主主義の膨張」。
このような社会でわたしたちは理性的に答えを下せるでしょうか。


【民主主義の限界】
しかしいざ答えを出すといっても、ほとんど知らないことばかりの巨大社会において、
自分の直接的な体験だけで答えるのは絶対に不可能です。
そこでわたしたちはマスメディアやインターネットの情報を駆使して知らない世界を想像して補完するわけです。
しかしメディアが情報を発信し、わたしたちが解釈する。
この一連のプロセスを現実に沿って行うことはほとんど不可能であるとウォルター・リップマンは指摘します。
そもそもわたしたちが仕入れる情報は、様々な原因によって歪みます。
ひとつ目の原因はメディアにあります。
メディアは限られた紙面や時間で報道しなければいけませんし、またメディアの政治信条が事実の中に溶けこみます。
そのため、事実を端折り、メディアの意に沿う事件のみ大々的に報道します。
そしてふたつ目の原因はわたしたちにあります。
メディアの歪んだ情報をわたしたちが解釈する時にも別の歪みが生じます。
わたしたちは報道をそのまま吸収することはできません。
生活環境や行動習慣によって作られたステレオタイプに則って報道を捻じ曲げてゆきます。
ここはとても大事なところで、わたしたちが導きだす結論は、論理や分析というよりも、
今までの環境や習慣によって反射的に決まってしまうというのです。
こうしたリップマンの分析は批判されるどころか近年の脳科学の研究で実証されつつあります。
以上のように、メディアが情報を発信し、わたしたちが解釈するという一連のプロセスにおいて多くの歪みが発生し、
根本的な事実誤認や論点のズレが頻繁に起こります。
従って、導き出される答えもおかしなものになってしまうわけです。


【ここまでのまとめ】
いったん整理しましょう。
巨大社会においてわたしたちが考えなければならない問題は広く多く、複雑です。
ひと・モノ・情報がこれだけ混ざり合う社会を理解するのは困難です。
理解を助けるはずのメディアもその性質上、伝える情報を歪めます。
そしてそれだけではなく、わたしたちの結論は、いままでの環境や習慣におおきく左右されるというのです。
人間の理性はこれほど弱く脆いのです。
誤解を恐れずに言えば、巨大社会において正しい情報を掴むことは困難だし、理性的に結論を下すことも極めて難しいのであります。


【民主主義の可能性(1)】
ただ皆さん聞いてください。
わたしはこんな身も蓋もないことを喋り続けるためにここに立っているのではありません。
わたしはなぜこれほどまでに個人の理性に対して批判をするのか?
それは、自分の理性を常に疑い続けることこそ、健全な民主主義を作り上げる第一歩だと強く信じているからであります。
本当に自分はこのテーマをよく知っているのかと不断に問いつづけ、分からない時は判断を保留したっていいのです。
民主主義が膨張しているからといって、それに合わせて背伸びをすれば、巨大社会のワナにはまってしまいます。
じぶんの力を過信せず、face-to-faceの関係に立ち戻り、出来ることから少しずつコミットしていく。
決して背伸びはしないのです。
そうしたひとりひとりの理性の砦が、民主主義を、独裁やポピュリズムから守るのであります。


【民主主義の可能性(2)】
そしてもうひとつ強調しておきたいのは、民主主義の問題はあくまで民主主義を徹底していくことでしか解決できないということです。
歴史を長い目で見れば、平等とそれに伴う人権が尊重されてまいりましたし、それはこれからも変わらないでしょう。
人権を守り多種多様な生き方を保障できる仕組みは民主主義しかありません。
また、科学技術の発展によって、これから更に社会は巨大化し、わたしたちが扱う問題もより広く多く、複雑になるでしょう。
だからこそ、常に政治参加や政治教育の可能性を担保し続けていくことが何よりも大事なのであります。
政府の情報公開を徹底させ、メディアの多様性と自由を尊重し、選挙権の拡大を歓迎する。
様々なところから情報を集めて自分なりに答えを出すというプロセスを経験することによって、自分自身の考え方を修正していくのであります。


【「民主主義の可能性」まとめ】
民主主義は劇的な変化を好みません。ラディカルな結論も好みません。
穏やかで、そして着実な変化を好みます。自分の理性を徹底的に疑い、自分ができることから少しずつ着実に行動していく。
そしてその上で、自分の結論を修正するチャンスを潰さないように、民主主義に必要なシステムを守り続けていく。
このふたつを常に意識していくことが、膨張した民主主義で必要とされていることなのであります。


【結び】
たとえわたしがこれまで述べたことを実践したとしても、
昔掲げた理想「正しい情報を集めて、理性的に答えを出す」このことを達成できる訳ではないでしょう。
しかしながら常にこの理想を追いかけ不断に努力を重ねてゆくこと、そのこと自体に価値を見出すのが民主主義という思想です。
野球小僧だったわたしが震災を経て、今こうやって演壇に立ち、皆さまへ未熟ながらも自分の言葉に責任を持って話している。
これはこの社会が民主主義を尊重しているからこそ実現しているのです。
民主主義を目指しての日々の努力のなかに、はじめて民主主義は見出される。
このことを忘れず、絶望や楽観にのめりこまないこと。それだけが求められているのです。
以上、ご清聴に感謝いたします。


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