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演題 「Politics/Politeness」

弁士 上野真弘(法1)

【私と政治】
 幼いころの記憶があります。
 街を走る街宣車が、社会問題を叫んでいました。
 その場にいた私は、社会問題に憤りました。
 私は憤りを抑えられず、隣にいた親にそれを伝えました。
 私は、親に共感してほしかったのです。
 しかし、私の親は困った顔をして、『あんな迷惑なことを言う人間にはなるな』と言いました。
 私は疑問に思いました。
 なぜ、私の言葉は迷惑がられるのかと。

 なぜ、政治を語ることが迷惑がられるのかと。

 今ならば、その答えがわかります。
 つまり、政治を語ることは、未熟な私にとって傲慢だったのです。

 幸か不幸か、私は傲慢なまま成長しました。
 だからこそ、この場に立っています。
 私は傲慢な人間です。
 未熟者ながらも、社会正義をこの口で語り、分不相応な夢を持つ、愚か者です。
 私は、その分不相応な夢を語りたい。
 民主主義という壮大なテーマについて、傲慢にも語りたい。
 この弁論は、政治とは何かを語り、民主主義の脆さを指摘し、その対応策について検討するものであります。


【政治のルール】
 政治は、社会を営むうえで不可欠です。
 社会が問題を抱えているとき、私たちは自分の利益だけにしがみついてはなりません。
 しかし、人は総じて、自己利益のために行動するものです。
 だからこそ、政治の場では、それぞれの自己利害を調整することが必要です。
 そのとき私たちは話し合いを避けられません。
 そして、話し合いは、お互いの言葉を尊重しなければ生まれてこないものです。
 だからこそ、政治に参加する人たちは、お互いの言葉に誠実であることが求められます。
 理性的に問題を解決するために必要なのです。
 問題解決の手段たる政治は、理性的でなければならない。
 よって、政治に参加する人々はみな、誠実でなければならない。
 これは1つのルールです。

【民主主義のルール】
 では、日本の政治を考えてみましょう。
 日本は民主主義国家です。
 我々は、政治にかかわるように宿命づけられています。
 その身に政治の利益を受け、また税金を支払い、そして政治に参加する権利を持つのです。
 このような民主国家において、市民の理性的な討論なしに、なぜ理性的な民主政治が成立するのでしょうか。
 理性的討論のない市民ほど、民主主義にとって危険なものはありません。
 また、市民が理性的に政治を見なければ、国家からの操作を簡単に受けてしまいます。
 ナチス・ドイツ然り、軍国主義下のわが国然り。
 このように、理性的討論は民主主義国家において必要不可欠であると言えます。


【民主主義の脆さと機能不全】
 しかし、お互いの言葉を尊重する話し合いは、非常にコストがかかります。
 コストを避けたい市民は、自分の意見を通らせるために暴力的な手段を使うか、意見の発信そのものをやめることになるでしょう。
 このような状態になれば、市民の政治参加などされず、民主主義は機能不全を起こします。
 理性的な議論がなければ、民主主義は崩れ落ちてしまう。
 無気力な大衆で満たされ、民意が反映されない、民主主義のまがい物になってしまう。
 これこそ、民主主義の脆さです。

 その兆候を挙げてみましょう。
 社会にはすでに、政治に参加するコストを避けようとして、意見の発信をあきらめてしまう人が出始めています。
 自分の力では政治に影響を及ぼせないという無気力が発生しているのです。
 投票率の低下は、その状況を示しています。
 最近の参議院議員選挙においても、半数近くの市民が投票をしませんでした。
 そして、投票棄権の理由で一番多かったものは、「用事があった」ということでした。
 しかし、ほとんどの人は、期日前投票などの制度を使えば、投票に行くことができたはずです。
 この棄権には、明確な意思などないのです。
 無気力と無関心は確実にこの国に根付いています。

 またこのような状態のせいで、民意は政策に反映されにくくなってしまっています。
 最もそれが顕著に表れているのは原発問題でしょう。
 ある世論調査では原発ゼロ支持者の割合が47%を超しました。
 しかし、政府はそれと逆の方向へ舵を取っています。
 さらに、特定秘密保護法も、ある世論調査では反対が50%を上回っていました。
 にもかかわらず、特定秘密保護法案は国会で可決されたのです。
 市民の意見が、反映されていないのです。
 民主主義は市民中心の政治であるべきなのにもかかわらず。
 これぞまさに、民主主義の機能不全です。


【機能不全の対処法:熟議】
 民主主義の機能不全を防ぐために、お互いを尊重する話し合いを重要視せねばなりません。
 日本の政治は、この機能不全に対応していくために、熟議型にシフトしていかねばなりません。
 どう足掻こうとも、民主主義の脆さからは逃れられません。
 民主政治のためには、市民の話し合いから逃れることができないからです。
 仲よし子よしの政治をしろと言うのではありません。
 政治に参加しろと強制するのでもありません。
 これは参加するときに必要な心構えの問題です。

 政治に参加をするからには、対話から逃げるな!
 対話から逃げ出す輩に、政治に関わる資格などないのです。

 熟議型の政治をする上で、問題があります。
 熟議は一朝一夕で成り立つものではありません。
 熟議は、他者の言葉を尊重するための土壌が必要なのです。
 その土壌をつくるためには、政治へ参加する市民が、話し合いを重んじるように意識改革をするしかありません。
 話し合いの価値、それ自体を高めなければ、熟議型の政治は達成されません。


【熟議の日】
 ここで、熟議の土壌を作るための1つの提案をしましょう。

  『熟議の日』の導入です。

 熟議の日とは、国民がディスカッションをするための祝日です。
 国政選挙の一週間前に、有権者を選挙区ごとに割り振り、その参加を促すのです。
 ディスカッションの事前情報は、候補者の政見放送やマニフェストです。
 市民たちは、ディスカッションで問題点を発見します。
 その結果は、マスコミなどを通じて社会に公開され、市民の投票の材料となります。
 この目的は参加の機会の提供です。
 この政策を打つことで、市民全体へ、お互いの意見を尊重する大切さを示すことができます。
 そして、市民が話し合いに参加することで、意見は理性的になります。
 候補者は地元有権者の洗練された意見を無視できません。
 市民のディスカッションが行われることを想定したマニフェストが作成されるでしょう。
 有権者の意見を無視しないと分かった市民は、誠実な話し合いの価値を確認します。
 その結果、相手の意見の尊重こそが、政治に参加するうえでの責務である、とする社会的雰囲気がつくりだされるのです。


【Politics/Politeness】
 人の力は、大きなものではありません。
 だからこそ、人は他者と協力し、言葉で他者と語り合うのです。
 そして有意義な協力のために、言葉に誠実に行動し、問題が起こった時にはお互いの言葉を尊重して話し合いをする必要があるのです。
 それには理性が必要不可欠です。
 理性的に協力することを忘れたとき、私たちはエゴイスティックで無責任な動物となり果てます。

 英語のPolitics「政治」と、Politeness「相手を尊重すること」。
 この単語は語源を同じくします。理性的な民主政治のためにも、政治に参加する市民は、互いの言葉を尊重しなければならないのです。

 ご清聴、ありがとうございました。



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