このページを閉じる
演題 「文化の潮」

弁士 桐生常朗(政経2)

【導入:グローバル化の必然性】
 男は、冷蔵庫を開け中を覗いている。
 ペットボトルに入ったコーラを手に取った。
 キャップをひねりながら、机に向かって歩き出す。  少しの間、男は、コーラを片手に、テレビの画面から流れてくるアニメを、ただぼんやりと眺めていた。
 暫くすると男は、ジーパンにTシャツ姿で部屋を出て行った。

 この男は、果たして誰だろうか!?
 日本人だろうか。アメリカ人だろうか、はたまた中国人だろうか。

 大航海時代、そして産業革命を経て進展したグローバル化は、it革命の下で第三段階へと歩みだした。
 グローバル化の主体は、もはや国家でも多国籍企業でもない。
 その主体は、個人へと移り、先進国だけでうねっていたグローバル化の波は全世界を飲み込もうとしている。
 大航海時代に、西欧諸国が新たな植民地を求めて海を渡ったように、産業革命以降、多国籍企業が新たな市場と労働力を求めて海を渡ったように、現在では、世界中の個人が情報を求めて海を渡る。
 科学技術が逆流することはない。
 ましてや、その技術が、各個人に委ねられたit技術とあっては、その進展を避ける事は出来ない。
 「丸かった地球は、平らな世界へと変わっている(トーマス・フリードマン)」とあるアメリカのジャーナリストの言葉である。
 もはや、グローバル化を避けて通ることは出来ない。
 我々は、グローバル化の中で、平らになっていく世界の中で、生きていかなければならないのである。

 本弁論は、第三段階に至ったグローバル化の特徴を踏まえた上で、国際社会で求められる価値観を訴えるものである。


【グローバル化のもたらす文化的意味:文化の差別化】
 グローバル化がその歩みを止めることはない。
 ヒトが、モノが、カネが、情報が、国境を超えて通用していく。
 巷では、グローバル・スタンダードという言葉があふれている。
 我々は、グローバル化の中で、他の文化と触れ合う機会を与えられている。
 この蠢きは、世界の文化に少なからぬ影響を与えている。

 先ほどの「男」の例は、その最もわかりやすい形である。
 マクドナルド化、コカコーラ化。
 近年のグローバル化を象徴するこれらの言葉は、批判的に、そして的確に、ライフスタイルの均質化・画一化を表している。
 グローバル化の進展と共に、このように世界は均質化されていく、とも言われている。

 だが、果たしてそうだろうか?
 本当に世界は均質化に向かっているだろうか?
 文化と文化の壁は取り払われようとしているのだろうか?

 グローバル化は、確かに我々と他の文化とが触れ合う機会を与えてくれた。
 グローバル化はライフスタイルを変え、表面的には世界を均質化しているように見える。
 しかし、我々は本当に他の文化を受け入れるようになったのだろうか?

 さて、我々は、自らのアイデンティティを他者との比較によって規定する。
 女医は、目の前に男性がいれば自らを女性として意識するが、目の前に患者がいれば自らを医者として意識するのである。
 同じように、目の前に、外国人が現れれば、我々は否応なく自らを日本人として強く意識する事になるのである。
 グローバル化による、異文化との遭遇は、かえって自らの文化を探し求める大きな力を与えたのである。
 グローバル化の進展とともに、世界中で文化は目覚め、宗教の再興が進展した。
 イスラムの著名な学者は、「神の復讐」とこれを表した。

 グローバル化は(表面的には)文化を変質化させた。
 しかし、グローバル化はその中心文化までは「破壊」し得なかった。
 千年の歴史を経て花開いた文化はそんなにも、か弱く儚い存在ではなかった。

 では、グローバル化は、文化と文化の壁を砕いただろうか。
 否、グローバル化は、その中心となる文化の復興を促し、その過程で他の文化との差別化を図らせたのである。
 グローバル化は、文化と文化との間に高すぎる壁を作り出し、互いに理解しづらい環境を造ったのである。

 グローバル化に伴って、人々は自国の文化に目覚めた。
 フランス、オランダ、オーストリア、スウェーデン。
 移民排斥を訴える極右政党が勢力を拡大している国々である。
 ソ連の崩壊後のロシアでは、25歳未満の若者の30%が無神論を捨てて神の下へと戻った。
 我が国の近年の右傾化は御存知の通り。
 20年前の我が国で、自衛隊を国防軍へ、などという議論が果たして国会で出来たか。
 イスラム世界の原理主義化は言うに及ばない。
 各国の右傾化は、今や世界的なうねりとなっているではないか。

 今、世界にあるのは文化の融合ではない。
 文化の差異化・差別化なのである。
 かつてベルリン市内に高くそびえたった壁は、イデオロギー対立の象徴とされた。
 南北700キロに渡ってパレスチナを貫く分離壁は今の時代の象徴である。
 グローバル化は文化を破壊したのではない。
 一つ一つの核心的文化の再興を推し進めたのである。


【文化対立:その血生臭さ】
 文化と文化の戦いは、妥協を許さない。
 ブルカ着用を、一ヶ月の内15日間認めるだとか、公園での着用は認めるなどといった譲歩的な法律は生まれようもない。
 出来上がったのは、公共の場でのブルカ着用の全面禁止だったのだ。

 また、この戦いに、完全なる終戦はない。
 パレスチナは3000年の間、休戦と戦争を繰り返している。
 中東はイラク戦争をキリスト教徒らによる第十次十字軍である、と言い放っている。
 文化の対立は戦争の形すら変えつつある。
 グローバル化が進展した90年代以降、宗教や民族の対立を原因とする国家間戦争が全体に占める割合は2割も増加している。
 混沌とした国際社会で繰り広げられる、妥協なき血なまぐさい戦いこそが、国際社会に於ける本当の脅威である。
 湾岸戦争は100時間で終結した。
 イラク戦争はどうだったか。


【これからの方針:国際社会がとるべき価値観】
 世界の右傾化、原理主義化それ自体は良いものでも悪いものでもない。
 グローバル化の進展の中で生じた自己意識の空隙に文化が入り込んだだけの話である。
 特に民主主義国家に於いては国民意識の変化は直に政治へと伝わっていく。これを根本的に止めることはおそらく不可能である。

 今、世界に求められている事は、このような国際社会の中で、文化と文化の衝突を避ける事である。
 本当の問題は、人々の文化的意識を忘れた、軽率な文化の取り込みと傲慢な文化の押し付けにこそある。
 グローバル化の中で、人々は、国家にアイデンティティの拠り所を求め、他文化への対抗に意識を燃やしている。
 重要なのは、人々が拠り所とする核心的な文化を意識し考え、軽率な他文化の取り込みと傲慢な文化の押し付けを慎むことである。

 グローバル化に伴って、人々は自らの文化に誇りを持つようになった。
 このような人々に、他国の文化を押し付けたら?無理に他国の文化を取り込ませようとしたら?
 人々は敏感に、そして、過激にそれに反発するのである。イスラムは、西欧的自由主義に対するテロリズムを激化させた。
 フランスやドイツを始めとする国々は、移民の排除を法律に基いて行いだした。軽率な、文化の融合によって、友好関係など生まれない。
 残るのは、その文化に対する、根深くそして血なまぐさい、対抗意識、敵対意識だけである。

 以上を以って、諸君らに問う。
 日本の中に世界をつくることは正しいか?
 世界の中に日本をつくることは正しいか?

 御清聴ありがとうございました。



▲ページトップへ
このページを閉じる