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演題 「生ける」

弁士 永田翔 (営1)
 「働きたい!働きたいんだよ!」ある中年男性は嘆きました。彼は中堅私立大を出た後、都内の中小企業に入社しました。その後、社内で出会った女性と結婚し、子供を持つこともできました。しかし、長引く不況の中、4年前、彼は勤め先の企業からリストラにあってしまったのです。そのとき彼は51歳。再就職できないかと彼は奮闘しました。しかしながら、年齢のせいもあってか再就職先は決まらず……….妻は去っていきました。途方に暮れた彼は、酒に溺れ、貯金もそこをつき、そして生活保護を受給し、日々の生活を送る事になりました。「世間の目は厳しい」彼は呟きます。彼の住んでいる地区の市役所の生活福祉事務所には「遊んでいる」「使えないはずの車に乗っている」などの苦情の電話が絶えません。このような彼の現状を笑えるでしょうか?その会場にいる皆さんの中にも、このような立場に追いやられる危険性はあるのではないでしょうか?

 この話を聞いて、私は思います。働けないということがそこまで悪いことなのか?と。そして、我々国民にとって「労働」とは如何なるものなのか?と。

 古代ギリシャ時代、労働は必然に屈服した隷従的行為として蔑視され、労働から解放された「自由」な行為が称揚されていました。しかしながら、近代になるとブルジョワジーの台頭により労働が突出することで、労働が最も価値のある行為になりました。また、それと同時にほかの活動の可能性を掘り崩していきました。その結果、「労働が尊いものであり、個の尊厳を守り、人間である承認を獲得する手段である」という近代労働観が定着しました。ブルジョワジーにとってそれは、プロテスタンティズムに基づく信仰によって自発的になされたものかもしれません。しかし、過酷な労働を強いられる労働者にとっては、このような禁欲倫理は外部から強制されたものなのです。そして、19世紀になるとそれが思想化され、労働は人間の本質であり、労働には喜びが内在しているとの言説が流布されました。それはフランスの社会思想家サンシモンの産業主義によって一つの完成された表現を得て、人として承認されるには必要不可欠なもとなったのです。そして、我々国民が人間として社会生活を送るには切っても切れない勤労倫理となってしまったのです。つまり、私たちが骨の髄まで信じ込まされている「働かざるもの食うべからず」という労働観は、近代産業社会に国民を総動員していくために、意図的に洗脳が行われてきた所産なのです。といっても、日本において高度経済背長期やバブルの頃、この労働観は時代と合致したものでした…….そして、その労働観は、国民が人として承認される要素の大部分を占めるようになっていきました。

 しかし………しかし、今日、私はこの労働観を問い直す必要がでてきていると思わずにはいられないのです。なぜならば、すべての国民が人間の本質であるといわれている「労働」を行うことが困難な状況にあるからです。この根拠は、働きたくても働けない“失業者”がいるという現状です。ここで扱う失業者の定義とは、働く意思、能力があるにもかかわらず働けていない者、です。このような労働力が足りている現状の中、国民は労働を獲得するために競争します。それは、労働が人として承認されるために必要不可欠なものであり、それを人は求めるからです。その一方で、競争の結果として、「働けるもの」「働けないもの」に国民は区分されてしまいます。こうした生産性が高まっていく社会で、労働と所得、人としての承認要素の強い結びつきを維持しようとすれば、必然的に社会にとっては必ずしも必要でない仕事を作り出さなければならなくなるでしょう。必要とされていない商品やサービスを売るため労働は、社会の生産性を増やさないにもかかわらず、果てしなく長時間化し、過酷になっていきます。そして、耐えられないものは病気になったり、自殺したりしてしまいます。このような労働できない原因を、その人の自己責任という言葉で片付ける社会は正常なのでしょうか?

 もしその社会を正常だとあなたがいうのならば、働けないものは人として承認されなくなってしまいます。彼らは、たとえ生活保護などで金銭的支援を受けることができたとしても、働けているものたちからいわれもない非難や辛い思いを感じながら生きていかなければならないでしょう。つまりは働いていない彼らは人であるという承認を受けていないのです。そんな彼らを、国の政策だけでは救うことはできません。なぜなら、この問題は金銭的支援のみで解決できるものではないからです。

 やはり、現在の労働観を問い直さなければ、彼らを非難や苦しみから救うことはできません!また、その中でも現在の労働観の中に存在する業績主義という個人の持つ能力や努力の差異によって決定されるという考えに着目しなくてはなりません!

なぜなら、能力についてだけでなく、かつて万人に平等に開かれていた努力についても近年、教育社会学者 苅谷剛彦により格差間における格差が存在していることが確認されたためです。それにも関わらず、階層の影響を受けつつ生み出された努力や能力によって規定された格差や差異を人々は依然として問題視することなく迎合してしまっているからなのです。そしてこれこそが、働けない者たちを苦しめている元凶なのです!


これでは働けない人は日々の生活に窮厄し続けてしまいます。彼らは一概に怠け者であるわけではないのに……….

 私は、彼らを働けるものから受ける非難や働けていないという苦しみから救いたいのです。もし働けているものたちが、「働かざるもの食うべからず」という労働観はすべての国民に当てはめることをできないと認識することができたなら、生活保護を受けるという形で働けないものたちが金銭的支援を享受したとしても、非難しなります。そして、働けていないものもまた、じぶんを責めなくなるのです。そして、働けないものは人である承認を別のものから得ようとするのです。私は、それがボランティアといった社会貢献であったらいいなと思います。

 あなたが働けない状況に追いやられた時のことを想像してください、あなたは、「自分は能力が低く努力をしてこなかったから働けないんだ」……と納得し、働ける者からの非難に耐えられますか?そして、働けないという理由から自分を苛むのですか?

ご清聴、ありがとうございました

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