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演題 「ルターはいつ死ぬのだろうか」

弁士 木下高志(政2)

唐突ですが、皆さんはナゼこの場に居らっしゃるのですか?
今までに、そしてこれから演壇に立たれる弁士の方々も、その理由は自身の持つ考えを聴衆に知ってもらう為であったり、あるいわ自己の研鑽練磨の為であったりと、いくらかの推測は出来ても、私の口からそれを断言する事は出来ません。

ただ、私が演壇に立つ理由として、一つ明確な事があります。それは
近代が「言葉こそすべて」。だからであります!
聴衆の皆さんには唐突にも聞こえるこの言葉。これは「唯言論」とも呼ばれる、存在に言葉ありきの考え方であり、「現代科学」や「近代資本主義」も大きくこれに支えられているものであります。
このソシュール以後確立された言語理論という考え方も、元を正せば古代ギリシャのイデアとエイドスの論争に始まり、中世の実在論と唯名論による普遍論争など、時と場所を変えながら論じ続けてものであります。
にも関わらず近代に於いて、この「唯言論」が優位に立ったのはナゼでしょうか?

歴史を紐解けば、この起源は近代の先駆けである「宗教改革」に辿り着きます。
1517年、ルターが『95ヶ条の論題』を発表し、「宗教改革」の発端を創ります。この時彼は、教会による魂の救済ではなく、信仰による魂の救済、いわゆる信仰義認論を唱えました。そして、信仰の拠り所は、今までの「教会」ではなく、「聖書」のみである、としました。これが、近代において「唯言論」が優勢になる背景だったのです。なぜならば、聖書はしきりに『言葉こそすべてである』と記しています。

そこを近代は出発点にしました。
しかし、ここで聴衆の皆様の中には「唯言論」により何か我々に不利益があるのか?とお考えの方が居らっしゃるかもしれません。そう「実在」と「言葉」がセットの方が事実認識や共有がし易く、世界の一元化が進んだ近代以降の世界に於いては、遥かに便利ではないのか?と。

しかし、我々はココで、「言語の恣意性」に注目しておかなければなりません。
現代日本では「言分け」により、コミュニケーション力や人格までもが評価の対象となる、高度能力主義化が可能となりました。これにより個性豊かな人格は、数少ない「ことば」によりカテゴリー化されてしまうのです。例えば「協調性」がある、と言う事実は「協調性」と言う言葉の存在なくしては、その存在を近代は認めてくれませんし、また一度「協調性」で括られた枠組みの中には、大きく質の異なるものが、カテゴリー分けされています。それが多数のチェックポイントを設けて評価するアドミッション・オフィス方式の選抜などで現れているのです。

全人格をもって社会に奉仕する時、それは人間性の抑圧に他なりません。
つまり、近代は「ことば」を司るもの達が認めることを「是」としたならば、それを認め、「否」としたならば、その存在自体を消し去る力を与えてしまったのです。

例えば、現代では、ただの気分が落ち込んでいる人は「鬱病」といなり、気の狂った人は「統合失調症」と呼ばれます。これは、「ことば」を与える事により、その存在を認められたからに他なりません。
現代はそういったもの存在を認める為に「ことば」をつけました。勿論、それは近代においては客観かつ明確な基準を求められるものですが、現状において医師の主観に大いに左右されると言うことは、皆さんもお分かりでしょう。

そうした「ことば」の恣意性を緩和するには、現状のような「唯言論」を打破する必要があります。
私は、これに「身分け」を使い「言分け」を相対化する事で解決を計ります。

我々人間は「身分け」と「言分け」両方を備えた動物です。

「身分け」とは、動物全般が持つ、カテゴリー化のことです。
それに対し「言分け」とは人間のみが保持しているシンボル化する能力であります。ココでは平たく説明する為に「唯言論」のツールだと考えて下さい。例えば、犬は腐った肉を前にすると、それを「食べられないもの」として線引きをし、また、境界を引く身としての自己を線引きします。いうなれば、「われ」と「もの」との世界なのです。一方ヒトは、腐った肉を「腐っている」と言うワード、概念で分けます。これがシンボル化であり、「言分け」であります。いうなれば、「われ」と「もの」の関係を「ことば」を介して理解しているのです。

ところが近代は人々の中で曖昧さを孕んでいたものでさえ、数値化或いは言語化して、曖昧さを排除しようと試みました。言うなれば「身分け」の領域に「言分け」を始めたのです。それが、ハイパーメリトクラシー化する社会であり、それを支える「唯言論」であります。

何となく、感覚では理解できるが、言語化されないと納得しない。
近代は中世の反省を活かし、厳密な基準を求めました。その根底が「ことばこそすべて」であります。そのツールが数値という誰にでも共通認識出来る「ことば」であり、また現在我々を支配する「科学」であります。そして、そこから「学力」や「病気」が成り立ち、更には「人格」までもが「言分け」されようとしています。

「言分け」、それ自体は、万人に共通の尺度が求められる、現代において否定されるべきものではございません。
しかし、「ことば」だけに、そんなに軸足を置いて良いものでしょうか?そして、このまま「言分け」を更に進めてしまった良いのでしょうか?

私はこの「ことばこそすべて」つまり「唯言論」の限界が来るのは遠くないと考えています。なぜならば、宗教改革を推し進めた背景には「教会」に対する各階層の不満がありました。そして、現代に於いて、「ことばこそすべて」主義に依存した資本主義に疲弊する人々が出始めております。

現代日本に目を向ければ、バブル崩壊後、民間企業は業績回復の為、能力主義を積極的に導入し、更に国策での「自由主義経済」「市場原理主義社会」が推進され、労働者酷使により今や我が国の国民は、過度の肉体的・精神的負担を強いられている事は皆さんも御存知でしょう。その結果、現代における競争原理至上主義は、多くの国民の失望をかおうとしております。

ここに私のもう1つの懸念があります。
急激な価値観の変動は、激痛を伴います。社会の混乱、それによる経済の停滞、治安の悪化。新しい時代、決してそれ自体は否定すべきものではございません。ただ、急速に進んだ世界の一元化の中で、価値観の変動はかつてないスピードで拡散します。
かつての社会主義の崩壊は多数の人々、特に価値観の転換に付いていけない人々に、混乱と失望、そして社会の混乱と停滞を招きました。
果たして「言分け」に全面依存した社会は、そして根底の価値観「言葉こそすべて」が作る現代社会は、大丈夫と言い切れるのでしょうか?

19世紀、ニーチェは人々の中から「宗教」が消えていくのを「神はもう死んだ」と形容しました。
では、今、我々を支配している「科学万能主義」はいつまで続くのでしょうか?そして、その扉を開いたルターは、一体いつ、死ぬのでしょうか?

ご清聴ありがとうございました


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